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▲カメラ持っていくの忘れたから、ツルツル撮影の写真を拝借。

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週末は、ツルツルの会社設立パーティ で、20年ぶりに筑波へお出かけ。山ガイドの会社だから、パーティももちろん山の中。東京より遅い春がようやくやってきたなか、筑波山をお散歩だ。


一人だったら、1時間もせずに登頂するような緩い山だ。ロープウエイで山頂まで行くこともできるため、老若男女集まる観光地で、山頂も土産屋でガヤガヤしているし、何だかなー、ああ、関東平野って広いなぁ、くらいの感想で終わっていたはず。


それが、この日は、参加者の一人、「自然案内人」金さん  のおかげで、視点が全く変わった。彼の歩調は、めちゃくちゃ、ゆっくりだ。そして、みんなが、花や遠くの景色を見ているときも、足もとだけを見ている、ヘンなおじさま。


筑波山は今、カタクリ の花が咲き乱れている。


咲き乱れている、といっても、足下にある紫色の地味な花。頭上に咲く、華やかなソメイヨシノの木とは対照的で、何も知らない朝の私は、「ああ、カタクリ粉のカタクリ?ってこれなの?ふーん」、で終わりになるような、地味さ加減。


でもね。


この花は、落葉樹の真下に生えていて、木々が葉っぱをつける前に、まだ地面まで光が届くうちに咲く初春の花なんだよ、とか、


葉っぱはずっと1枚しかなくて、花が咲くときになってようやく2枚になるんだ、昔の人は葉をおひたしにして食べたんだけど、葉っぱを取るときは、絶対に1枚しかもらわないんだ、また来年も咲いて欲しいからね、とか、


栄養分を使う花は、だから、最初に咲くまでに7年もかかっているんだ、とか、


6枚の花びらに見える半分は、花じゃなくてガクなんだよ、とか、


金さんがかがみ込んではボソボソと教えてくれるそういう話を聞いていると、土から10センチのところに生えているこのカタクリの花や、隣にある「まだ1枚だけの葉っぱ」が、どんどんくっきり鮮明に見えるようになって、どの花もが愛おしくなってきた自分に驚いた。


人間に開発されつくしてしまったような、里山筑波山ですら、カタクリの花ひとつで、その奥の大自然の営みを観ることができるんだという発見に、びっくり。逆に、金さんに教えられ、カタクリに目を落とさなければ、この生命力豊かな森に気づかなかったであろう、自分の鈍さには、がっかり。


でも、金さんは、私が観ている何倍もの美しい森を観ているんだろうなぁ。



「なんでそんなに何でもご存じなんですか!?」と聞けば、「いや、自然が教えてくれるのさ」と、飄々と答える金さん。翌日の花見は、「春の野草を集めて天ぷらにして食べる会」なんだ、と、粋な毎日送っているらしい金さんに、なんだか弟子入りしたくなったぞ。


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「アラスカ物語」(新田次郎)を読んできた人は、何もない大地にぽつんとある崩れかけた小屋を見て、泣くね。知らない人には、何でもない景色なんだけど、と、masa兄は言っていた。


つまり、今日私が言いたいのは・・・


同じ場所にいても、見えている景色は、人によって全然違うんだよな、って事実。より広く、より深く、その景色を感じとりたいなら、出かける前に、裏を読みとれる力を・・・それは、知識だったり感性だったり・・・を、身につけておくべきだ。その方が、ただわいわい出かけて、「おー!」と写真とって帰ってくるよりも、ずっと豊かな時間を過ごせる。