ただいま。家に帰ってきて、有働アナの震災特集みてました。

思い出した。
いっぱい思い出した。
10年前の、敏感で、心柔らかだった自分を。

1,2週間前、「世界自然旅」から一時帰国していた、高校&大学のかわいい後輩が、ネパール土産(20円のクッキー)をもって、オフィスに遊びにきてくれた。

で、彼から「青崎さん、10年ですよ~。久しぶりに行かないんですか?」と言われて初めて認識した「震災10年」。すっかり忘れていたけど、大学生で、ほぼテストも終わった私は、寝袋もって、魚崎の小学校にボランティアに行っていたのだった。この後輩も同じことをした、ボランティア仲間でもある。

その話をしたときは、「そんなこともあったっけ。私も年とったねー」で終わったのだけど、今日、10年前の地震直後の写真をテレビで見ていたら、くっきりと思い出した。あのときの気持ち。

自分が普通に生活している、ほんのすぐそばで、とんでもない事態になっているのに、実感がない、隔靴掻痒なもどかしさ。3日もテレビをみていたら、いてもたってもいられなくなって、寝袋ひとつ、大学のボランティア団体のつてを頼りに、東灘の魚崎小学校に飛び込んでいた。

ボランティアって高尚な気持ちより、起こっている現実を、テレビの向こう側じゃなく、皮膚感覚で感じたかったから、があのときの正直な気持ちだ。

でも、行ってよかった。東京にいる私は、どうしたって、隣の世界、「人ごと」な災害だけど、あの時あそこにいたことが、私の想像力をふくらませる。テレビで知るだけだった自分よりも、少しだけ、被災者の気持ちが分かる気がする。

あの頃は、世界で起こっているすべてをこの目でみたいという「現実感」がほしくて、ジャーナリストを目指していたのに、今はどういうわけだか、のんきな平和産業、旅行業界に身をおいている。でも、きっと、根っこにあるものは一緒だと思うのだ。

テレビの向こうで起こっている、平べったい人ごとな出来事じゃ気が済まない。自分で見たいし、現実を、他の世界を、皮膚感覚で感じ取りたい。

そうすることで、当事者にはなれないけれど、当事者の気持ちを察するくらいの大きな自分になれるんじゃないだろうか。他人でも遠い自然でも他の社会でも、今いる自分の世界と同じぐらいの深さと広がりがあるんだろうってこと、多様性と同一性を、実感して生きられるんじゃないだろうかな。

知らない世界をこの目で実際に見て触れれば触れるほど、世界はどんどん大きく深くなっていく。